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日本の議会政治を支えた政治家。神奈川県の出身ですが、14歳の時、明治政府の役人だった父・行正(ゆきまさ)の転任に伴って伊勢へ移住してきました。当時、伊勢神宮の外宮近くにあった「宮崎郷学校」で、英語や算数などを学びます。1890年31歳で、日本最初の総選挙に三重県から立候補して当選、以来25回連続当選の驚異的な記録をうち立てました。政治家として数々の記録を残すことから「憲政の神様」とも呼ばれています。尾崎咢堂記念館では、ありし日の尾崎の写真、遺筆、遺品等を見ることができます。
昭和を代表する映画監督。青春時代を過ごした伊勢の地には今も彼の痕跡が残っています。出生は東京ですが、父の郷里である三重県松阪市で育ちました。小津安二郎が通った宇治山田中学跡地には記念の石柱が立っています。残された日記には現在も人気の伊勢うどんの「喜八屋」に通っていたこと、朝熊山を登山した話などが書かれています。彼の足跡を求める映画ファンは現在も後を絶ちません。
伊勢出身の澤村榮治は日本プロ野球史上に残る伝説の選手の一人でもあり、その年の最も活躍した投手に送られる「沢村賞」の由来にもなっているプロ野球選手です。読売巨人軍で活躍し、プロ野球史上初となるノーヒットノーランを達成し、プロ野球史上初となるMVPにも選出されました。澤村榮治の栄誉と功績を称え、背番号14は読売巨人軍の永久欠番となっています。宇治山田駅前には澤村榮治の銅像、ダイムスタジアム伊勢(倉田山公園野球場)の入り口には胸像があります。
伊勢出身の西村幸生は草創期の阪神タイガースを支えたエースピッチャーでした。チームを2度の優勝に導いた立役者であり、特に澤村榮治投手との対決は名勝負と称されました。ダイムスタジアム伊勢(倉田山公園野球場)の入り口に澤村榮治と並んで胸像があります。
平安時代の歌人西行は、旅の歌人として有名です。多くの優れた歌を残したこの西行は、伊勢に関する歌を数多く詠み、晩年を伊勢の地で過ごしています。西行の歌集である「山家集」には、出家後、鈴鹿の山を越え伊勢に行くときに詠んだ歌があり、伊勢に住むまでにも何度か足を運んでいるのではないかと思われます。そして、西行は60歳代の数年間を二見の安養山で過ごしたとされています。伊勢にいた間、西行は伊勢神宮の神官たちと歌のやりとりをしたり、歌を教えたりしていたようです。また、西行自ら選んだ歌72首を伊勢神宮に奉納したりもしています。西行にとって伊勢は愛着のある所だったのでしょう。
江戸時代に活躍した松尾芭蕉は、代表作『奥の細道』や『野ざらし紀行』の旅などで伊勢に6度訪れ、20を超える句を詠んでいます。お伊勢参り、尊敬する西行法師や俳諧の祖である荒木田守武神主ゆかりの地である伊勢は芭蕉にとって憧れの土地でした。伊勢は俳諧の盛んな土地で芭蕉のファンや門人も多かったため伊勢人との交流は深く、俳諧興行もしばしば行われました。芭蕉が詠んだ場所には芭蕉句碑が建てられています。
伊勢神宮内宮の神主家に生まれた荒木田守武は室町後期に俳諧を独立した文芸の境地へと高めた人物で、俳祖と呼ばれています。没後410年を記念して荒木田守武の句碑が、64歳の時に作った代表句とともに旧宅跡近くの神宮ばら園の一角に建てられています。
江戸時代に、毎年洪水を起こしていた暴れ川・宮川から田畑や家を守ろうと自ら人柱になった庄屋・松井孫右衛門。その功績から神様と祀られ、石碑と社が建てられています。
平清盛の四男・平知盛は、壇ノ浦の戦いにて源氏に敗れ自害したと伝えられていますが、確かな証拠はなく、従者30人と共に伊勢の船江に上陸し、伊勢神宮内宮の裏に当たる伊勢市矢持町に平家の再興を願い、隠れ住んだと言われています。矢持町の中には知盛が平家一族を弔うために創建したと伝えられる久昌寺があります。