伊勢は
日本精神文化(生成り文化)はじまりのまち
コンベンション(集会・交流・観光)はじまりのまち
遷宮による再生のはじまりのまち
伊勢には日本の精神文化に深く根ざした伊勢神宮があり、古くから「日本人の心のふるさと」と親しまれてきました。
自然を愛する心、先祖を敬う心を原点とする日本の文化も、ここ伊勢の地を源としているといえます。
その本質は、飾り気のないありのままを良しとする考え方。つまり、伊勢は「生成り文化」のまちと位置付けられるのです。
おかげ参りに象徴されるように、伊勢には津々浦々から多くの人が集い、さまざまな出会いと交流が生まれてきました。
伊勢はコンベンション(集会・交流・観光)の「はじまりのまち」でもあります。
二十年に一度の式年遷宮を契機にはじまりのまち「伊勢」は活力を甦らせ、そこに住む人や訪れる人々に、永遠に変わることのない「日本のこころ」を伝えつづけています。
総檜の清々しい様式美を誇る伊勢神宮の社殿は、「神明造」と呼ばれるもの。弥生時代の穀倉から発展したもので、日本最古の建築様式の一つと言われています。
もともとは伊勢神宮の神職である御師。参拝の勧誘を行ったり、参拝者を自宅に宿泊させ山海の珍味でもてなすなど、現在のツアーコンダクターの元祖となりました。
貨幣はやりとりが不便なため、17世紀初頭に山田の商人が額面を書いた預かり手形(羽書)を考案。紙幣としては、世界2番目の古さで、これが商人札、藩札の起源となりました。
全国に流通したカレンダーの第1号。御師が配った暦は、生活に密着した情報が記されていたため農家を中心とした庶民に大好評で、神宮への信仰と信頼はさらに高まりました。
造船業が盛んだった伊勢市大湊の造船所で、日本初の鉄張りの軍船が誕生。戦国武将の九鬼嘉隆はここで七隻の安宅船を造り、織田信長の天下統一に貢献しました
伊勢神宮の神官として宗教的色合いの強い連歌に親しんでいましたが、後に連歌の作法を打ち破って五・七・五の俳諧を独立させる気運を生み出し、俳句の礎を築きました。
明治15(1882)年、二見浦は神戸の須磨・三浦半島の葉山とともに日本初の公認海水浴場として開設。しかし、当時は泳ぐというより健康を目的とした潮浴びが主流でした。
出稼ぎのため江戸の町づくりに参加した伊勢出身の与市が、銭瓶橋のたもとに湯屋を作ったのがはじまり。蒸し風呂でしたが、人夫たちの汗と疲れをとるのに一役買いました。
開通当初、東京~伊勢が国道1号でした。後に国道1号は東京と大阪を結ぶ基幹道路にルート変更され、当時国道1号の区間だった四日市~伊勢は国道23号と改称されました。
日本の有料道路は、昭和28(1953)年、度会橋(伊勢)~櫛田橋(松阪)間の10.6キロ区間で開通した参宮有料道路がはじまり。通行料金は普通車180円、軽自動車60円でした。
贈答品の印に使われる「のし」は、伊勢神宮の供え物の熨斗あわびが起源。上流階級の武家間でも慶事の贈答品に用いられましたが、次第に形式化され、現在の印になりました。
日本初の私立産業博物館として、明治24(1891)年に外宮前に開館。「自然の産物がいかに役立つか」をテーマとして、天照大御神と豊受大御神の神徳を広めるために創設されました。
首都移転50年を記念して京都~東京を23区間に分けてリレーしたのが起源である駅伝。この競技名は、元・日本体育協会副会長で神宮皇學館館長の武田氏がつけたものです。